そして芽以子は世界を見ていた。
夜空を突き抜ける膨大な光の柱。
真昼のように照らし出される東京の街。
魔王を包み込んだ光の本流は、日本中から観測された。ある人は車を止めて、ある人は家から出てきて、避難所から、屋上から、田んぼの畔道から、雑居ビルの合間から、誰も言葉を発することなくその光を見上げていた。
誰もが固唾を呑んで、遙か彼方の空を見守っていた。
テレビを通じて、ネットを通じて、世界中の人々がその光を見つめていた。
魔王の雄叫びが、地球の大気を震撼させる。
雲を吹き飛ばし、海を大きくうねらせ、大地を揺るがす。
空間をもひずませて、重力が狂う。海水は玉となって浮かび上がり、炎上していた軍艦も、周囲に散乱した瓦礫も、飛び散った戦闘機の残骸も、何もかも舞い上がっていく。
聞こえるのは魔王の、その重く長い咆哮のみ。湾岸一帯が光の粒子で包まれて、浮かび上がる水泡にきらめき、幾重にも乱反射を続けていた。
兵士たちも、魔導士たちも、誰もなすすべなく空に吸い込まれていく。光の本流を見つめ、腹の底に響く咆哮を聞き入り、ただ途方に暮れる。
その中で、ひとりだけ。
闇夜と光子のその狭間で、彼女だけがまだ必死にあがいていた。
ティアラ──
彼女は泣きながら、回復呪文を唱えていた。
必死になって術式を組み立てていた。
なんども、なんども。
芽以子の背中から溢れ出る返り血を全身に浴びて、腕も、ドレスも、頬も、血だらけだった。額に玉のような汗を浮かべて、何重にも方陣を展開させて、嗚咽混じりの呪文を叫ぶ。
帰ってきて──と、彼女の願いが聞こえる。
不死身だっていったでしょう──と、彼女の罵りが聞こえてくる。
芽以子がそっと囁いた。
「ごめんね、ティアラ。わたし、うそついてたの」
泣き叫ぶティアラを抱きしめたくても、芽以子にはもうその腕はない。
「わたしが不死身なのは、クライマックスのその瞬間まで」
愛おしいあの娘に届く声もない。
「カミサマが、そういってたからね」
魔王を包む光の本流は、いよいよその激しさを増した。雷雲もないというのに湾岸一帯に激しい稲光が何千本と落雷し、しかも絶え間なく続く。
アガレットは己の身も顧みず、周囲に結界を張り巡らせる。
殿下、待避を──アガレットが絶叫する。
しかしティアラは聞き入れない。
一心不乱に回復術式を唱え続ける。
芽以子の心臓がすでに止まっていることを、彼女は知っている。
それでもティアラは高位術式を展開させて、傷を塞ぎ、血液を生みだし、芽以子の骸に命を注ぐ。自身の命を切り取って。
アガレットが無茶だと叫ぶ。激しい雷撃に顔をゆがめながら。
それでもティアラは決してやめない。
やがてアガレットも蘇生術に加わって、完全にシンクロする重奏詠唱。ふたりの天才による劣化ゼロの最高位術式が芽以子を包む。
帰ってきて、というティアラの祈りを聴きながら──
──芽以子は、輝ける魔王を見た。
魔王はいまだ滅びない。己の身のあらゆる部位を自壊させながら、それでもしぶとくのたうち回る。
世界のすべてを道連れにしようと、醜く蠢く。
幾度目かの魔王の咆哮。強烈な音波が、ティアラとアガレット、そして芽以子の骸をなぎ払う。
「そうね──」
芽以子は夜空を見た。
空だけは凪いでいて、絶望が満ちる地表を見下ろしている。
「──そろそろ終わりにしましょうか」
魔王の頭の一つが海に落ちた。頭部は大爆発し、海を煮沸させ、近海の海洋生物を殺し尽くす。
「そして最後の決着をつけましょう」
もげ落ちる巨大なその腕は、大きく吹き飛んで、湾岸の建物を滅茶苦茶に破壊する。
「確かにわたしには、あなたを倒すとはできない」
魔王の内蔵が破裂すると、辺り一帯は毒素で満ちる。紫色したその気体が、人の肺を蝕もうと広がっていく。
「抵抗することすらできない」
ティアラとアガレットは上空で体勢を立て直す。魔王への攻撃も、自身の防御もしないで、ただひたすらに蘇生術式を繰り返す。
「確かにわたしは、あなたの手の上で踊っているだけだった」
ティアラとアガレットの周囲に、生き残った魔導士たちが集まり壁となる。飛び散った魔王の爪は、魔導士たちが作る結界を易々と切り裂く。巨大な爪が魔導士たちの身を切り裂いても、彼らは二人を守り続ける。
「でも、だからなんだというの?」
魔王を包む光の輝きが、いよいよ激しさを増した。光は真っ赤に染まり、いっそう巨大に膨張していく。
その赤光の本流から、フレアのような塊が飛び出して、彗星のごとく世界を巡る。
「わたしの武器は一つだけ」
世界中の空を、魔王から生まれた数多の彗星が駆け巡る。
「わたしの武器は、あなたを知ること、ただそれだけ──」
空が血色に染まり、その方陣は完成する。
「──そうであると、武器は一つだけだと、思い込まされていた」
世界中の人々は、その残酷な空に向けて、祈りを捧げるしかもうすべがなかった。
「でも本当は違う。答えは、どこにでも、いくらでもたくさんある」
一際大きな魔王の咆哮。いままさに、血の雨のような熱線が、世界に向かって降り注ぐ。
「だから今、あなたが見ているその先を、見せてあげる」
芽以子がいった。また、ぼくに向かって。
「わたしは、あなただけのキャラじゃない。やれるものならやってみなさい!」
そうしてぼくは、苦笑する。
あなたは、どこまでも強気なんですよね。
どんな悲劇を作っても、あなたは膝を屈しない。常に答えを捻り出す。
誰も気づかない世界を、誰もが見たくない現実を、真っ正面から見据えたまま。
ぼくもそう、あやかりたいものです。
魔王最期の術式は、芽以子のたった一言によって霧散する。
月夜が戻り、光の柱は崩落し、細く長い慟哭とともに海へと消える。
うねる海岸の先端で。
ティアラは思い出していた。芽以子の言葉を。
──わたしがまた消えたなら
そういって、ティアラを抱きしめる腕の中は、小さく震えていた。
──また、わたしを捜して
震えていたんだ。
──待ってるから
ティアラはそれを忘れない。
──ずっと、待ってるから
怖くても、それでも進む芽以子の姿を、見失ったりなんかしない。
絶対に。
最初に目に飛び込んできた光は、子供のように泣きじゃくるティアラの笑顔。
芽以子は笑った。ティアラに向かって。
「ただいま、ティアラ──!」
(fin.)
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